趣味の一つに 2

まるで学生時代にもどったようで、ピアノのレッスンは楽しかった。

ソナタとかソナチネとかはもう弾けないだろうと思っていたが、学生時代にやったことは身体が覚えているようで、一度練習していたものは意外とスムーズに出来た。

調子にのってショパンも練習した。無くした夢を取り戻すかのように朝晩弾いて、

どうにか2,3曲弾けるようになった。今楽譜を見るとなんでこんな複雑なのが弾けたんだろうというくらい難しい。そして今はショパンは全く弾けない。あれだけ練習して弾けるようになっていたけれど、年齢いってからは指も覚えてくれないらしく、常に同じものを繰り返さないと忘れてしまうようだ。

なのでクラシックは諦めて、映画音楽やポップスを弾いてみることに。

そう、小学生の頃に衝撃を受けたようにカッコよく弾こう。

そう思うと、あれもこれも、これまでの何十年の間に聴いてきたさまざまな曲や歌が甦る。練習するのにも楽しい。

何をするのでも先ず基本からが常識なので、基本のクラシックをやっていくのが当たり前だろうが、大人でもつまらないと思うのだから子供はなおさらだろう。進学するのでないならそこそこ弾けるようになったら、子供が好きな曲を練習するのもいいのだろうななんて感じる。

学生時代は朝晩練習なんてとてもやる気が起きなかったけれど、今は好きな曲を弾けると思うと、時間が許せばもっと弾いておきたいと思ったりする。

でも、子供のころ嫌々ながらでも基本の部分を練習してたからだろうと、

結果的に楽しい趣味を持たせてくれた亡き祖父に感謝している。

趣味の一つに

適当に練習しながら高校生までピアノは続けた。

最後の先生は近くに嫁いでこられた方だったので、もう代わることもなくせっせとまた通った。中学生になったので、将来の進路はどうするのか聞かれた。

ピアノのほうへ進学するつもりならそろそろ受験用に発声練習や楽典の勉強もしなければならないということだった。

大学へは行きたいけれど具体的なものがなかった私は、常々祖父に言われていた「ピアノの先生になったほうがいい」という言葉を思い出し、ピアノやります。と安易に言ってしまった。それからは、ピアノの練習量が増え楽典の教本を覚え、発声練習をやり

聴音もやらなければならなかった。ズボラで根性のない私はあえなく挫折してしまった。その後はピアノに触ることもなく過ごしたが、結婚するときは、せっかく買ってもらったピアノだからと嫁ぎ先に持参した。そして子供が生まれ慌ただしい日々。

自分でもしょーもない親だと思うけれど、自分が挫折したピアノを子供にも習わせた。

それも習っていた先生のところへ連れて行った。そして自分が少々弾けるものだから子供にきっちり練習させて、まるで最初に恐怖を覚えた先生が乗り移ったかのように、きつくヒステリックにあたった。当たり前だが子供はピアノが嫌になり途中でやめる。それでもどうにか高校生までは続けたけれど。

子供をレッスンに連れて行っていた頃、先生が、今は大人の生徒さんもおみえになるよと話してくれた。それでたまに茶話会を兼ねて、ピアノのあるカフェを借りて発表会みたいなことをしてるとのこと。あなたも弾いてたのだから参加してみたらということだった。弾いていたといっても学生時代のことなので、これはやはりレッスンしてもらうほうがいいだろうとなり、私もまた生徒になった。

趣味への入り口2

私が習い始めた頃はピアノの先生というと若い独身の女性が当たり前だったので、

途中で結婚して他所へ行ってしまう人が多かった。

私は小学生時代で4人の先生の所へ通った。幸いどこのお宅も割と近場だったので

自転車で毎週、休みたくても休めずせっせと通った。

最初から、それなりに弾ければいいという程度の気持ちだったから、優しい先生に代わってからは自宅での練習もそこそこになり、教本の進み具合も遅くなった。

でも、辞めるという選択は許されなかったので取りあえず通っていた。

2人目の先生はスレンダーな色白美人で対応も柔らかく練習はどうでもよかったけど

通うのは苦にならなかった。それにその先生が音大か高校かで同級生だったのが

私がその時好きで好きでたまらなかった売れっ子アイドル歌手で、クラス写真に一緒に写っているのを見せてもらうのが楽しくて仕方なかった。

その先生のお父さんは個人病院をされていて、息子さんが医大生でたまに帰宅されているようだった。ある日いつものように裏口の門をくぐってピアノのある部屋の前の庭を通っていたら、その時代の流行歌がピアノで力強く奏でられていた。ピアノの音色と聞きなれたポピュラーなメロディーがうまく相まって、何とも言えない衝撃をうけた。簡単に言うと「わああ、カッコイイ」ということかな。

あの美人の優しい先生が弾いてるんじゃないだろうと子供心にも感じた。

こんにちは、と言って部屋をのぞいたら見知らぬ男の人がピアノの前にすわっていて

かっこいい演奏をしていた。「あ、今日レッスンだったのね?ちょっと待っててね」と言っていつもの美人先生と交代した。

先生は「びっくりしたでしょ、あれ弟なのよ。大学が休みで帰省してるのよ」と説明してくれた。私は、医大に行ってるのにあんな風にピアノも弾けるんだ、ということに

また衝撃を受けた。あんなかっこいいピアノ演奏できたらいいな。そんなことを思った。

 

 

趣味への入り口

幼稚園時代、オルガン教室が流行った。

通っていた幼稚園で教室が開かれていた。

女の子は皆憧れていたと思う。私もそうだった。

ちゃんと習わないと鍵盤を片手で適当に押してみるくらいしかできないから、レッスンを受けて、皆で歌う童謡を両手で弾ける子は注目の的だった。

私の祖父はそんな気持ちを察し孫可愛さに、小学生になったらすぐ

なぜかピアノ教室に通わせることにした。

たぶん、オルガンよりもピアノのほうがステイタスみたいなところがあったのではないかなと今思っている。

肝心の私は、憧れてはいたけれど、遊び半分で弾ければいいくらいにしか思っていなかったので正直毎週通うのは勘弁して、という気持ちだった。

でも、逆らうことなんて到底無理で仕方なく週1回ピアノの個人教室に通うことになった。

 

その教室は独身の若い女の先生が自宅で教えてくれる、ちょい古い民家だった。

この先生が結構キツイ性格だった。

何の楽器でも弾きこなすのは相当難しいもので、ピアノも、何度弾いても同じところを同じ指で間違って押してしまう。

そうするとその先生、「またそこ押したじゃない、その間違って押す薬指は切り取ってしまいなさいよ」とヒステリックに叫ぶ。

幼い私は恐怖に震えた。それに幼稚園の、あの花々に囲まれたような雰囲気のオルガンレッスンとのあまりの落差に教本の音譜も鉛の玉に見えた。古い民家だったので部屋も少々薄暗い印象があり、ますます気持ちは落ち込んだ。

けれど、大人しい性格で逆らうことのできない私は、赤いバツ印のついた鉛の玉の部分を自宅でも一生懸命練習した。

自宅で練習用に買ってもらったのは、なぜか電気オルガンだった。

あの頃いっせいに売り出していたからかピアノを買うには予算が足りなかったからか、

私はどうでもよかったけれど。

 

子供達よありがとう

もう子供達は独立しているので今更教育の仕方を考えることもないけれど。

時間もあった私は子供たちが小さい頃からおけいこ事、スポーツ教室、塾と

いろんなところへ通わせてその送り迎えで慌ただしかった。

もちろん、子供自身がやりたいと言うからで、強制したつもりはない。

 

親ばかとはよく言ったもので、幼稚園時代まではちょっとした漢字が読めたり、

暗算ができたりするとひょっとして東大にも行けるんではないかい?みたいな妄想を描いたり、お絵かきでナントカ賞をもらってくると、東大やめて芸大目指すか~?

なんて自分の子供だということをすっかり忘れて喜ぶ。

小学生になり通知表を持ってくるようになってだんだんと、目指すレベルを

下方修正する。そして高校生にもなれば、取りあえず行ける大学に入れちゃおう。

ということで収めることになる。

あくまで私の子供のことで私の友人の子供は皆優秀でこの地域ではナンバーワンの高校や大学に入った人も多い。

 

私の子育ての時代は専業主婦と働く主婦が半々くらいで、まだ子育てするには

無理して働かないほうがいいというような風潮もあった。

帰宅時に母親が家にいないのは可哀想とか食事が出来合いのものに偏りがちとか、

自分もそんなことを思っていたから専業主婦でいた。

でも、たいしたことはできなかったんだ。

働いていようと専業主婦でいようと、同じなんだなと今は思う。

一生懸命誠実に日々を送るということが大切なんだ。

そしてなぜ、うちの子は勉強嫌いになったのか?親がそうだったからだろうか。

大人でも子供でも自分の興味のあることは集中して話を聞くし、自ずと復習もしている。あれだけ教科があるのだから、一つは興味持てることがあるはずだ。

それに気づいてその芽を大切に育てることができなかったからなんだろう。

全ての教科まんべんなく成績を上げるよう強制してたのだ。

もう過ぎたことだから仕方ないといえばそれまでだけれど。

一筋の何かを探す手助けをするのが親の役目なんだと、終わってからわかったという

あほな話でした。

 

笑顔が眩しい、幼い頃の我が子の写真を見ていた。

 

現状維持はよいのか?

生活という言葉を調べてみた。

生きながらえるために行うさまざまな活動、らしい。

そういわれればそうだと思う。

まず、食べることは必然だし衣服も体を守るためには最低限必要。

外でそのままは寝ることも出来ない。

これを確保するために仕事をして給与をもらう。

私は長年専業主婦なので給与は夫が持って来る。

お金を稼がない分、家事はぬかりなくやれよ、と無言の圧力がかかっている。

でも、私は優等生な性格だけどほんとの優等生のように身を粉にして働くことができない。要するに、ただのズボラな性格。

家事をやる時間は潤沢にあるのだが、その家事を適当に省略して

もっと時間をつくりママ友とランチに行ったり、

趣味を持たなければ自己実現できない、なんてことを思って絵や生け花を習ってみたり。そんなことで忙しくしているから、ますます家事は手抜きになる。

幸いなことに、夫は私に圧力はかけているがそう神経質ではなく、多少部屋が散らかっていても日々文句を言いつ続けることはない。

でも私は毎日ストレスと戦っている。

姑だ。

大正生まれで大人数の兄弟の長女で育ち、彼女の夫には若くして先立たれたので

苦労が多かったらしい。

そんな親子の中に私のようなズボラでお気楽な女が入り込んだものだから、

そりゃ、彼女の物差しから大いにはみだしているだろう。

私は牢獄で監視されてるようで堪らない。その上遠まわしな嫌味で口撃される。

ますます私は外へ出る。家事は手抜き。この公式が出来上がってしまった。

こんな生活も永遠ではないとわかってるつもりだが、

今はこんなもん。

 

 

 

 

中二病がなおらない

あの頃、希望に満ちていた。

具体的なことはわからなかったが、未来は虹色に輝いていた。

そんな風に感じていた。

何十年も前の田舎の女子中学生。それでもファッション雑誌やマンガ雑誌は当たり前に読めたし、休み時間の友人との話題は人気のテレビ番組やアイドルのこと。

流行りのアイドルの振付を真似て踊ったりもしていた。

勉強はそう好きでもなかったが、小学生時代からそこそこ良い成績で、

その延長なのか、中学生になってからもそれなりのものだった。

田舎だから生徒数も少なく、中間試験や期末試験の前に少し集中して復習すればなんとかなるレベルだったのだろう。そこを変な勘違いをしていたようで、自分はこんな田舎で女性蔑視されながら、一生送るなんてごめんだ。

東京の大学を出て何か高収入を得る仕事を持ちたい、と思っていた。

それもクリエイティブな仕事を。

 

田舎の娘が田舎をばかにしていた。

 

小さい頃からおとなしいほうで、親や大人の言いつけを素直に守る優等生な性格だった。だから小学生時代は学級委員は毎年必ず、担任の先生から職員室に呼び出され特別にご褒美をもらったりした。中学生になってからも学級委員はもちろん生徒会長にまで立候補した。ちょっとしたエリート気分だったのだ。だからそれが知らず知らずに表面に漏れ出してたのだろう。嫌な感じだったと思う。

そんなもんだから、友達は少なかった。

もちろんボーイフレンドなんて皆無。

交換日記が流行っていたけど、女友達とはしても男子としたことはない。

好きな人もいたが、あの頃一世風靡していた「両想い」にはなれなかった。

今思えば、こんな可愛げのない女子に「両想い」なんて有りえないことだったんだ。

貴重な女友達にも、生意気な私と仲良くしてくれて感謝しないと罰が当たる。

そんな勘違い中学生な私が大人になり、田舎で結婚し子供を育てた。

未だに何かを勘違いしているのかもしれないが、それが何かわからずにいる。